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家の話

春。暖かくなってくると、日中ポスティングに出かけることが多くなります。塾を宣伝するためのチラシを携えて、水橋を中心にいろいろな所を歩きます。塾の先生は教室にいて子どもたちを教えるだけというイメージを持たれる方が多いかもしれませんが、実際は、新しいお客さんに来てもらうための営業活動も欠かせません。ポスティングはそういう営業活動の1つ。いろいろな所に出没するので、郵便ポストにチラシを入れて回っている私を見かけたことがある方もおられるかもしれません。そういうときに知った方と鉢合わせしたりするのは、どうも気恥ずかしいものですが。

家が建ち並ぶ場所を歩きますが、古い家が建ち並ぶ所もあれば、できて間もない新しい家が建ち並ぶ所もあります。目の前の家には年配の夫婦だけが暮らしているのだろうかとか、ここは小学校に上がる前くらいの子どもがいるのだろうなとか、仕事柄、歩きながら自然と思ってしまいます。家というものはいろいろなことを語ります。あれっと思うくらい生活道具の類いを外に出していない家。そこに住んでいるはずの人の気配さえ希薄だったりします。この家の人は、近所づきあいを含めて、外との関わりにあまり積極的ではないのかな、などと自然に思いはひとり歩きを始めます。かと思えば、子どもの自転車や洗い立てのシューズが置いてあるような家からは、当然ですが元気で明るい空気が感じられて、自然とこちらの気分も明るくなります。こんなふうに、歩きながらいろいろと思いは駆け巡るので、ポスティングというのは、退屈な単純作業のように思われるかもしれませんが、実際はなかなかに面白いものです。

人の暮らしという小宇宙。その中には、さまざまな出来事、さまざまな思い、そしてもちろんさまざまな人生が内在していて、それはなかなかに幅広い、奥深いものです。人の幸福とはなんだろうか、人間とはなんだろうか、ということを、歩きながら、いつしか、考えるでもなく考えるというふうに、思いはまた自然と変転していきます。ポスティングをしながらこんなことを思う人が他にいるのかどうか、知りませんし、自分はよほど変わっているのだろうか、と思ったりもしますが。でも、もし他にも同じように思う人がいたなら、思うことを語り合ってみたいような気もします。

大宇宙の片隅のちっぽけな星の上で繰り広げられている人間のさまざまな営みと、そしてまた日々当たり前に繰り返されている人の生き死に。こうしたことにどういう意味があるのだろうかという疑問は、おそらく人類の歴史と同じくらい古いものなのでしょう。古代ギリシャの哲学者から、最近の脳科学の分野で最先端の研究をしている科学者まで、頭の中には一貫してこういう疑問があるのではないかと思います。それだけでなく、あらゆる宗教、あらゆる芸術に関わる人々の頭の中にも。考えても答えの出ない問いを考えざるを得ないのが人間の宿命だと言ったのは、哲学者のカントでした。思えば人間であるとは実に因果なことです。そう思うと自然に、他の人たちへの同情が湧いてきます。人は皆、自分の人生という得体の知れないものと闘って、悩みながら、生きているのですから。もちろん私もです。

ポスティングで方々の家々を巡り、1軒1軒の醸し出す空気を感じながら、それぞれの家の建物に、そこに住む人が自分の人生に対して抱く理想が込められていると感じます。その理想は、それぞれの人の、自分の人生の意味は?というおそらく永久に答えの出ないであろう疑問に対する精一杯の答えでもあると感じます。いろいろな家。いろいろな答え。人間的な、あまりに人間的な...

そう言えば以前、今は亡き芸術家の赤瀬川原平さんらが、「街角観察学会」なるものを立ち上げて活動していたのを聞いたことがあります。以前はなんと悠長な、物好きなことを、と、一方ではその活動に抗いがたい面白さも感じつつ思ったものでしたが、今になってその活動の意味が、なんとなくですが、分かるような気がします。確かに家というものがただ雨露をしのぐとか、子育てをするとかいった実用だけを考えて建てられるなら、その形も空気感もだいたい似たり寄ったりのものになりそうなのに、実際は実に多様なのですから、そこには住む人の人生観や考え方が色濃く反映していると考えて間違いはないように思います。街角観察、街角探訪というのは、そういうさまざまな人生観や考え方の痕跡をリサーチして歩く、ということになるのでしょう。

ところで私は昔から、まったくの素人ではありますが建物に興味があって、いろいろ耳学問だけは達者だったりするのですが(祖父が建築をやっていました)、ちょっと調べてみると、20世紀初めにピークを迎えたモダニズム建築の理想は、ひと言で言えば、個性を消し去る、ということだったように思います。身近な例で言えば、私たちがかつて通った小学校や中学校の建物、それに県営住宅や市営住宅のアパート建築。そういうものは、20世紀初めのモダニズム建築をお手本にして建てられたものです。鉄骨とコンクリートとガラスでできている箱形の分かりやすい建物。モダニズム建築が理想としたのは、(上の話と関係づけるなら、)放っておくと止めどなく人生の意味を考えてしまい、やがて悩みの淵に沈んでしまうという、人間ならではの避けられない宿命に歯止めをかけることだったのかもしれません。それは、ああでもないこうでもないと思い悩んでばかりいず、頭を上げて、前を向いて、とりあえず"今・ここ"に集中せよ、という主張だ、と言えるかもしれません。

こういう主張は、ひょっとしたら、「生きづらさ」から人間を救ってくれるよい薬になるかもしれません。生きづらさとはたいてい、独善的な思い込みが肥大して、その中で精神的に身動きが取れなくなってしまっている状態だと思われるからです。

さて、家というものは、住む人の理想の人生を反映したものだとしても、それはまた同時に、住む人の気持ちや考え方に大きな影響を及ぼすものであるという側面も、決して無視できないと思います。人間は周囲の環境に影響されやすいですから。家は住む人を元気づけることもあれば、腐らせてしまうこともあるということです。私たちは生きている以上は、心も体もできるだけ元気でありたいものです。それには当人の心がけも大事ですが、それ以上に身近な環境を整えることが大事です。誰でも今ある家をすぐに新しいものに改めることはできませんが、できる範囲でいろいろ工夫してみることはできます。人を腐らせてしまう家では、当然のことながら、子どももかわいそうです。そんな環境では、勉強する気も起きないでしょうし。我が子の行動を危惧しなければならないようなときは、家の環境整備ということを考えてみてもよいかもしれません。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)